40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

訂正可能性の哲学

ぼくが重視したい「小さな社会」における対話は、必ずしも理性的で倫理的なものではない。私的で、価値転倒的で、ときに反社会的ですらありうるような雑多な言葉たちである。「小さな社会」の対話は、けっして「最終的な真実」に辿りつかない。それゆえよき公共にもよき統治にも辿りつかない。けれどもそれは、だからこそ逆に、一般意志が押し付ける絶対的な真実をたえず訂正し、「脱構築」することで、その暴走と腐敗を抑制する役割を果たすのである。
一般意志の暴走は理性によって正しく抑え込まれるのではない。それは文学によって正しさとは無関係に抑え込まれる。政治の真実は、文学の嘘が伴ってはじめて統治を人工的自然に変えることができる。

民主主義の本質は喧騒にある。終わることのない対話が一般意志を取り巻くことで、統治は健全なものになる。終わらない対話によって一般意志の絶対性を制約しうる。

 

おわりに

正義なんて本当は存在しない。同じように真理もないし愛もない。自我もないし美もないし自由もないし国家もない。すべてが幻想だ。
みなそれは知っている。にもかかわらず、ほとんどのひとはそれらが存在するかのように行動している。それはなにを意味するのか。人間についての学問というのは、究極的にはすべてこの幻想の機能について考える営みだと思う。

その機能は自然科学によって解明できる。人間が正義の観念をもつのは、きっとそのほうが進化の過程で優位だったからだ。真理も愛も自我も美も自由も国家も、おそらく同じように説明できる。自然科学は正義や愛のメカニズムを、まるでゲームを統べるルールであるかのように説明する。

けれどもいくら成り立ちが解明されても、人間が人間であるかぎり、ぼくたちは結局同じ幻想を抱いて生きることしかできない。人間は幻想がないと生きていけない。だとすれば、ぼくたちに必要なのは、ルールを解明する力ではなく、まずはそのルールを変える力、ルールがいかに変わりうるかを示す力なのではないか。
哲学はまさにその変革可能性を示す営みであり、だから生きることにとって必要なのだというのが、ぼくがみなさんに伝えたかったことである。

 

 

感想

一般意志を訂正しうる雑音が必要という結論。そうなると、今のニュース・新聞・ネット言説なんかの雑音は、全く無意味に思えて、それなりの役割な担っているってことなのかねえ。訂正元となる政治中枢が腐ってるのはいただけないところだけど。人工知能民主主義への警鐘を鳴らしているけれど、訂正力は既に担保されている状況なんだから、早いとこ人工知能を導入していったほうが良さそうに思えるね。今の体制がこのまま続くことのほうが、余程破滅的なような。

 

「おわりに」の文章はちょっと僕に響く。真理・愛なんて無いという結論のもと、僕は今のアリリタに辿り着いている。その理解に到達したことで満足し、そこで終了させてしまっている。でも実は、多くの人はそれを既に織り込み、その上でそれらがあるかのように振る舞っているとしたら。僕は彼らに比べ、前段階で立ち止まってしまっていることになるのでは。
まあ、幻想がないと生きていけないから、仕方なく行動しているということなら溜飲も下がるんだけど。僕は幻想がなくても生きていけるからこそ、前段階で踏みとどまることが可能になっている、と。

でも「自由」という幻想には囚われているのかねえ。「自我」という幻想にも。こういうことについても、今後とも考え続けていきたい。哲学はそれを示せるということだし、引き続き東さんやシラスに定期的に触れていこう。

小右記

はじめに
平安時代というのは、ともすれば『源氏物語』に代表される文学作品を基にして考える傾向が強かった。平安貴族が実際に恋愛と遊宴にばかり熱中しているように誤解している人が多かったのである。しかし、女房文学も一面での真実を伝えているとはいえ、平安貴族の真実の姿、特に男性貴族によってとり行われる政務や儀式は古記録を読み解くことによってしか解明できない。

 

小右記』はすべてが実資自身の記述によるものではなく、古くは懐平や公任、その後は資平や資房など、小野宮家を挙げて情報(書状、懐紙、笏紙、書冊、草子、また様々な文書など)を実資の許に持ち寄り、それを具注暦の暦の行の左側に貼り継いだうえで、実資が書き込みを行い、『小右記』の「記事」としたのであろう。それはまさに、小野宮家挙げての共有財産としての日記と称すべきものであった。

 

 

感想

最近、平安時代日記文学を続けて読んでいるので、同時代を別の視点から読んで理解を深めたいと思って。藤原道長の有名な句が出てくる本ということもあり、それが一番の関心だったんだけど、それ以外の部分も興味深く、とても楽しい読書となった。

 

小右記』自体は現代語訳で16巻にもなるような大作。大部分は政務・儀式の次第がつらつらと書かれているんだろう。著者もそれを目的に書き残したんだから当然。そういうのは最小限にし、面白い部分だけを抽出してくれるビギナーズクラシックはありがたい。それでも750ページ以上ある分厚い本になっていたけどね。

 

紫式部日記」を読み、道綱母(「蜻蛉日記」の著者)の娘が出世・成功していったのは分かったけれど。肝心の息子・道綱のほうは、残念なことになっていた模様。道綱母は教養人だったけど、結局これも政治とは関係ない部分の知識でしかない。本丸の政務・儀式について女性は知りようがなく、教えようもなかった、ってことなんだろうなあ。道綱自身に才覚があれば、それもやり様はあったんだろうけどね。実家のバックアップがないのはキツイ。記録を保持している実資とは対照的な人物で、その対比が面白いところ。

 

やっぱり同じ時代を固め読みするのは、色々な所との関連や深掘りが見つかっていいな。これからもしばらく、平安時代に浸っていこう。