40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

ためらいの倫理学−戦争・性・物語−

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

戦争であれ、ジェノサイドであれ、「だれが」それを起こしたのか、というような問いは無効である。「私がそれを起こした」と確信している人間などそこには一人もいないからだ。全員が「自分こそ最初の、最大の被害者である」と思いこむ人々のあいだで、はじめて破壊的な暴力は発生する。暴力の培地は悪意ではない。おのれは無垢であるという信憑である。


戦争論」言説群の中で、問題の「虎の尾を踏んだ」のが、加藤典洋の「敗戦後論」と小林よしのりの「新ゴーマニズム宣言スペシャル・戦争論」の二つの著作であることに異論のある者はいないだろう。

私は、イデオローグとしての小林の所論には特に興味がない。(同じことをもっと「論理的」に西尾幹二西部邁藤岡信勝が書いている。)しかし、戦後の言説空間、つまり言説の資本主義的な市場を、マスメディアから右翼まで、あらゆる既成権威に唾を吐きかけるパフォーマンスを武器に生き延びてきた一人の表現者が、世紀末に至って「国民国家という公的権威の再建」という「凡庸」な結論に導かれたという事実は、私を深い徒労感のうちに沈ませる。(「秩序紊乱者」小林よしのりが最終的に「既成」のフレームワークに着地してしまった)

加藤典洋が引き受けようとしたのが、アンティゴネー的な「喪の作業」、死者たちを永遠に安らかに眠らせるための鎮魂の儀式だったのに対して、小林たちネオ・ナショナリストが求めているのは、むしろ死者を揺り起こし、彼らに「いま・ここで」仕事をさせようという「反魂」の儀式であるように思われる。

カミュが「異邦人」で試みた「無意味な死者をその無意味さのうちで哀悼する」という鎮魂の儀礼は、死者を私たちの「現在の」意味のシステムのうちに回収してはならないという強い禁欲に動機づけられていた。「顔」は「意味」しない。だから「顔」に意味を担わせたとき、それはもう「顔」ではなくなっている。死者を「侵略者」として鞭打つために呼び出すものも、死者を「英霊」として顕彰するために呼び出すものも、死者の「顔」を見ようとはしない点では、つまり「本当の戦争の話」を語らないという点では、同じ身ぶりを繰り返している。


感想
前に、「内田樹小林よしのりが対談をしたらどうなるだろう?」って感想を書いたことがあったんだけど(「街場の中国論」にて)、内田さんが直接小林さんについて言及している箇所を見つけて興奮した。といってもその内容は、正面から切り込んだものではなく、軽く流したものだったけど(予想通りだった)。言論人としての小林さんにはあまり価値を置いていないんだな。小林さんの漫画で衝撃を受けた人間としてはかなり残念だ。もっとガチでやってくれたら面白かったのに。

小林さんの言説の変遷について。僕が読み始めたのは「戦争論」からなんで、実際のところどれくらい主張を変えてきたのかは分からないんだけど。まあ確かに、「戦争論」以後の部分でも、立場が変化していった面はあると思う。でもそれは、「丸くなった」とか「凡庸に堕した」とかってことではないんじゃないかな。よく考え、納得して自分の意見を出している。ちゃんと筋は通っていると思う。自分の昔からの意見に固執せず、柔軟に思考できるってのは、逆に長所だろう。見習っていきたい点だ。内田さんこそ、「フレームワーク」で考え、思想の細部を見ようとしていないんじゃないだろうか。

あと、「死者に特定の意味を付与する」ってところ。小林さんも、ポジショントークでちょっと過激に言っている面もあるだろう。でもそれは、一方に偏りすぎた空気を修正するための一つの手段だ。「どちらか一方だけなんてあり得ない」とか言って黙していては、現状偏った「侵略者」としての立ち位置を肯定し広めることになってしまう。自分個人だけの問題であれば、中庸の立場もいいだろう。でも、世の中全体を考えれば、小林さんみたいな立場の人たちも絶対に必要だと思う。まあ、そうするとそっち側に偏ってしまう人も出てきてしまうわけで、内田さんみたいに「どっちつかず」を主張する人も必要ではあるんだけど。


こうして見ると、僕って内田さんよりも小林さん寄りなんだな。大人な「流す態度」があまり好きではないんだろう。「上から論じやがって」って感じ。と言いつつ、僕の思考法は内田さんの方に近いんだけどね。同属嫌悪みたいなもの。小林さんの持つ、「僕に無いもの」に憧れているんだろうな。