40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

悩む力

悩む力 (集英社新書 444C)

悩む力 (集英社新書 444C)

感想
父の本棚から持ってきた本。またまた生き方について。「真理は無い」「絶対は無い」と確信していつつ、それでもこの手の本を求めてしまうのは何なんだろう。考えるのが好きな人間にとって、一番最適な話題だから、ってことなのかな。自分の思考を研ぎ澄まし、深堀りするのは楽しいからな。出来れば、自分の思考の確認に終わるだけでなく、ガツンと一発頭をぶん殴られるような意見にも出会いたいんだけど。



自我が肥大化していくほど、自分と他者との折りあいがつかなくなるのです。人によっては、「他者とのかかわりは表面的にしのぎ、本当の自分は隠しておく」といった方法が取れるかもしれません。
僕は自我が肥大するようなことは無いけれど、現れる現象は似てるのかな。絶対の生き方なんて無いんだから、人の生き方はそれぞれ受け入れなくてはならないもの。でもこの考え方って、「相手を変えるつもりがないんだから、主張する必要も無い」ってことにもなりがち。隠してるわけじゃないんだけどさ。そうやって相手を全肯定する存在って、いてもいなくても同じってことになりかねないよな。



自分の城だけを作ろうとしても、自分は立てられないのです。自我というものは他者との関係性の中でしか成立しないからです。私は、自我というものは他者との「相互承認」の産物だと言いたいのです。そして、もっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要があるということです。
「自分を投げ出す」か。僕は相手を承認する気持ちはあるけれど、自分を承認してもらうために多くを開示することは無い。なぜなら、この世に絶対は無く、僕の考えを全否定することは出来ないと確信しているから。相手の承認を待たずとも、自分で自分に承認を下せる。自己完結しちゃってるんだよな。自分の考えは絶対ではないと言いつつ、それを否定させるつもりもない。柔軟そうに見えて、実は頑固な人間なのかも。
僕を受け入れてくれている周りの人は、「開示しない僕」をそのまま承認してくれてるんだろうな。何だか申し訳ない。僕は、自分の主張によって、相手を変えたいなんて思わない。でも、それに共感してもらえたり、その人が気付かず奥底に持っていた感情を引き出すことができたとしたら、嬉しいよな。そういう気持ちを出発点に、もう少し違う相手との関わり方を考えていったほうがよさそうだ。



私は青春のころから自分への問いかけを続けてきて、「結局、解は見つからない」とわかりました。と言うより、「解は見つからないけれども、自分が行けるところまで行くしかないのだ」という解が見つかりました。
何だかんだ言って、著者の結論は結局僕と一緒なんだね。「絶対の解はないけれど、自分自身の最善を求め、その過程も楽しみながら生きていく。」



人がスピリチュアルや宗教もどきによって何らかの答えや満足感を得ているなら、私はそれでいいと思います。私自身は、それらを否定したくはありません。要は、「それが、その人にとって信ずるに足るものであるかどうか」ということが重要なのです。そして、それを信じるか信じないかというのも、個人の自由なのです。
ですから、究極的には、「信じる」ということは、「何かを信じる」ということではなく、「自分を信じる」ということになると思います。言うなれば、「一人一宗教」「自分が教祖」なのです。

まったくもってその通り。何かに頼っているようでも、それがその人の「選択」なんだよな。流されただけだったとしても、そこに至る過程があるわけで。安易に否定していいものじゃない。



愛には形がない。形がないだけでなく、「愛のあり方は刻々と変わる」のです。「私にとってこの人は何なのか?」と問うことは、問いかけ自体が間違っているのではないでしょうか。すなわち、相手と向かいあうときは、相手にとって自分が何なのかを考える。相手が自分に何を問いかけているのかを考える。そして、それに自分が応えようとする。相手の問いかけに応える、あるいは応えようとする意欲がある、その限りにおいて、愛は成立しているのではないでしょうか。
人間関係についてはまだ定見を持っていない。学ばないといけないことは多いな。とりあえず色々と情報収集しよう。