- 作者: 安冨歩
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2012/01/07
- メディア: 単行本
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子路は「これだから、先生は迂遠だ」と言っていますが、もちろん、迂遠ではないのです。何か大変な危機的事態になっているとき、最も恐ろしいことは、人々が欺瞞的な言葉を使うことです。
そもそも、そういう「危機」を生み出すのが、この言葉の歪みです。自らの国のあり方や、国力や、軍事力について、正確な言葉を用いなくなったことで、この国は暴走し、あの愚かで無意味な戦争に突入してしまったのです。
人間が、自分の行為に責任を持つ、という場合、そこには全人格的な関与が不可欠です。「私は、私の自身の決意に基づいて、これこれのことをする」というしっかりとした思いがあれば、人は、そこから生じた結果から目を背けず、引き受けることが可能となります。これが「責任をとる」ということです。
ところが、「言われたからやりました」「立場上、そうせざるを得なかったのです」「周りがそうしているので、そうしました」という場合には、このような全人格的関与を望むことはできません。それゆえ、そこから生じた結果についても、目を背け、逃げようとします。というより、それ以外は無理です。こういう状況では、いかに厳しい規則をつくろうが、罰則を設けようが、何をしても、責任を持って行動するということは起きません。
この事故に帰結する愚行に責任のある御用学者に、将来のプランやビジョンを考える権限などありません。彼らのあり方の、どこがどうおかしかったかが検討に付されるべきであり、原子力御用学者体制が徹底的に解体されるべきなのです。事故の解析は、そのような体制変革と並行して行われて、ようやく意味があります。当事者意識を欠いた無責任な人々の考えつくようなことは、常に全く無意味です。
感想
「東大話法」という、詭弁のレトリックの解説書。自分の意見を通すため、多かれ少なかれそういうテクニックってのは出てくるものだろう。東大話法を批判している著者の主張にも、少し強引に思える箇所がいくつかあった。まあ別に、それを悪く言うつもりはない。相手がそれを駆使してくる以上、言い負かされないためにはある程度こちらも攻勢に出る必要があるんだろう。それが自分の首を絞めるのは仕方のないところ。読者である僕としては、そういう話法に対する耐性や対処法をある程度学べればそれでいいので。
「立場」についての言説にページが割かれていたけど、あんまりしっくりこなかった。「立場」に縛られているのは今も昔も変わらない。ならば現代になってそこに責任が伴わなくなったのは何故?それは、時代の流れの早さの所為というより、エリート意識の崩壊が原因なんじゃないのかなあ。先端分野が増えすぎて、「専門家」の数が増えすぎ、専門家であることの自負が薄れた?それとも過度な民主化の進行の所為か?
もっとじっくり考えながら読んでいかないといけなかったかもな。これは「日本人論」にも関わってくる部分だと思う。日本人論については今後深く追っていきたいと思っているんで、その折にでも考えていこう。
それにしても原発問題、再稼動が進んでいっているね。僕は前にこのブログで、「原発を続けてもいいけど、その場合は、それ相応の覚悟を決めてからにしてほしい。」って書いた。この主張は、今回読んだ本で述べられている、「責任を持つ」ということに対応している。今進んでいる再稼動は、その所在をはっきりさせた上で進んでいるのか?原発推進に関わっている全ての人は、電力不安とか日本の競争力とかの言い訳をせず、全人格を賭してその推進にコミットしているのか?不安が残るよなあ。
とりあえず、御用学者体制の解体は確実に実行してほしいもんだ。