40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

なぜ私はここに「いる」のか−結婚・家族・国家の意味−

人間は一般に、身体的な経験の蓄積、あるいは情緒的な経験の蓄積をどう総括し、物語化し、現在およびこれからの自分の生に役立てるか―たえずそういうことを問いながら生きているわけです。これは個々人の記憶の維持によって支えられるのですが、記憶の維持を支えているのが何かといったら、やはり人間が関係のなかで生きているという事実なのです。たぶん自分一人だけでは記憶は維持できません。

自己というものを実体として捉えてしまうと、空虚に陥るしかないのです。人間が生きていくときには、これまで生きてきたという記憶を頼りに、その記憶を自分のなかで対象化しながら、たえずその記憶から自分を超越させることによって自分はかくかくの存在であると捉えます。そして、捉えた自己を基盤にして、今度は相手とかかわってさまざまな関係を作っていく。そのことによってはじめて自己というものは、具体的に実現されていく。そういうひとつの運動であって、実体としての自己というようなものがあるわけではないのです。
本当の自己とは何かとか、本当の自分探しというように、何か自分の現実的経験世界の彼岸に「自己なるもの」が存在すると考えないほうがいいと思います。ある関係をとることによって、その照り返しとして、自分とは何だろうかというような問いが立ち上がってくる、ということになるのです。


感想
ゴー宣EXTRA パトリなきナショナリズム」の中でこの本が引用されており、ちょっと興味を持ったので読んでみた。引用部分だけでなく全体を通して読んでみたが、難しい内容で、ちょっと敷居が高かったな。自分の興味外の部分も含んでいたんで仕方ないんだけど。
タイトル通り、人間について、その「身体」や「心」についてや、家族・社会・国家との関係について論じている。人間が、他の人間との関係性の中で生きているってのはちゃんと意識しておかないといけないよな。記憶も、人や社会との関係があってこそ成り立っているものらしい。記憶こそ、その人をその人たらしめているものだというのに。「人は一人では生きていけない」ってよく言われるけれど、その意味は深い。その全存在が自分の周りの人間や社会に拠っている。まあ、人の生まれからしてそうなわけだけどさ。つくづく、自分だけのもの、一人だけで生み出したものなんて無いよな。それを心に留めつつ、日々を過ごしていきたい。