40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

街場のマンガ論

街場のマンガ論 (小学館クリエイティブ単行本)

街場のマンガ論 (小学館クリエイティブ単行本)

感想
内田さんの本だからってことで読んでみた。最近はあんまり読まなくなったとはいえ、僕もマンガは好きだしね。大学生時代までは、毎週ジャンプ・マガジン・サンデーは読んでいた。今でも、実家に帰ったときには弟が買った単行本を読ませてもらったりしている。本と違って、気楽に読めるのがいいよね。まあ、そういう種類の本を読めばいいだけの話なんだけど。


バカボンド』は「一気におとなになる以外に生き延びる道がない子ども」を主人公にしたマンガである。それは人格的成長を遂げることによって「豊かな人生を送りましょう」というような牧歌的な話ではなく、「おとなにならないと、死ぬ」という、ヴァイタルに切実な「ビルドゥングスロマン」なのである。

SLAM DUNK』の作者・井上雄彦についての論考は結構面白かった。『SLAM DUNK』は単行本で全巻持ってるけど、『バカボンド』は読んだことがない。今度TSUTAYAで借りて一気に読んでみるのもいいかもな。


マンガには複数の発話水準が存在する。少年マンガには「実際に口に出して言った言葉」、「心の中で思ったが、口に出さなかった言葉」、「擬態語」の三種類の言葉しかない。ところが、少女マンガにはその他にもう一つの発話水準がある。それは「心の中には存在するのだが、そのことに本人さえ気づいていない言葉」である。
女性たちはこの「言葉にしなくていいもの」「言葉にしない方がいいもの」を言葉以外の記号を用いて巧みに操作することができる。男にはそれができない。少女マンガの「キモ」は、この「言葉として口には出されていないが、記号的には発信されている思い」を読み取る快楽である。

少女マンガについての論考も面白かった。興味はあるが、今の僕には少女マンガは読めないだろうなあ。察するのって苦手だから。「要望があるならはっきり言ってほしい。そうすればいくらでも協力するから。」ってのが僕のスタンスだし。でもこれが読めるようになれば、人の雰囲気や仕草から感情を読み取る力が身に付いたりするかも。


私は自分が老いてきて、「老いる」というのが子どものころに想像していたのとはぜんぜん違う経験だということを身に沁みて知った。老いるというのは「精神は子どものまま身体だけが老人になる経験」のことだったのである。『ハウルの動く城』のソフィーの気分である。
「よく老いる」というのは、「いかにも老人臭くなること」ではない。幼児期の自分も少年期の自分も青年期の自分も壮年期の自分も、全員が生きて今、自分の中で活発に息づいている。そして、もっとも適切なタイミングで、その中の誰かが「人格交替」して、支配的人格として登場する。そういう人格の可動域の広さこそが「老いの手柄」だと私は思うのである。

なるほどね。僕も、老いても柔軟さや謙虚さを失わずにいたいもんだ。


アメコミの「スーパーヒーロー」のほとんどはアメリカの「セルフイメージ」である。それは「生来ひよわな青年」がなぜか「恐るべき破壊力」を賦与され、とりあえず「悪を倒し、世界に平和をもたらす」ために日々献身的に活動するのであるが、あまり期待通りには感謝されず、「おまえこそ世界を破壊しているじゃないか」という人々の心ない罵詈雑言を浴びて傷つく・・・というものである。だが、彼を信じる少数の理解者のために、ヒーローはまた立ち上がって、世界を救う仕事に向かう・・・という話型を私たちは何度見せつけられたであろう。

アメコミがアメリカの「セルフイメージ」だってのは初めて知った。言われてみれば、本当にそのまんまだな。そういうのって、意識してキャラ設定が作られたのかなあ。それとも、育った文化が無意識に作らせたのか?読者も、無意識のうちに自分に合うものを選択し、結果今のアメコミの世界が形作られたのか?興味深いなあ。日本のセルフイメージについての考察も良かった。


それにしても、内田樹がここまでマンガ好きだとは知らなかった。本当、興味の範囲が広い人だなあ。と言っても、彼によると「私はオタクというものの対極にある」「私にはそもそも何も淫するものがない」ということらしいけど。深くのめり込むことがないからこそ、広範囲に興味を保てるのかもしれないな。僕はそれほど深いものは持っていないくせに、それほど広くもないという。中途半端な状態だなあ。色々広げたいという意志自体は持ってるんだけどね。