40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

希望難民ご一行様

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

社会学者の小熊英二は、ナショナリズムが「癒し」としての機能を持っていることを指摘している。90年代において従来の共同体が機能を喪失していく中で、浮遊する「普通の市民」が「ある種の不安と空虚さを抱えながら、いわば束の間の開放感と安定感を求めて、『歴史』という居場所、『日本』という居場所に群れつどう」というのだ。


毒舌書評家の斉藤美奈子が指摘するように、沢木耕太郎の『深夜特急』と『アジアン・ジャパニーズ』(1995年出版)にはある断絶がある。異文化体験を中心に描かれ、青春の悩みはスパイスに過ぎない『深夜特急』に対して、『アジアン・ジャパニーズ』では、旅の動機、旅をする理由を問うこと自体が旅の目的となってしまっているのだ。それは旅行記というよりも「自分探し」エッセイだ。一番の関心事は「自分らしさ」を失った「日本社会で生きる自分たち若者」であり、そこで「海外」はただの背景として受容されているに過ぎないのである。


「セカイ型」の若者に共通するのは、「異質なもの」に対する耐性に弱さである。なぜ若者たちはこれほどに「異質なもの」を嫌悪するのだろうか。それは、彼らが論理や言葉ではなく「感覚」によって共同性を構築しているためかも知れない。
彼らに共通するのは、「想い」さえ通じ合えれば「わかってくれる」という期待である。そこに「想い」を共有しない他者の存在は想定されないし、だから他者との合意形成の過程も想定されない。この「想い」によって理想が実現するというのがピースボートの考え方なのである。
「想い」が届かない相手に対しては、対話や討議によって妥協点を見つけようとするのではなく、一方的に悲しんで終わってしまうのである。


かつては学歴社会が「若者たちをあきらめさせる」役割を果たしていた。それは、近代という堅い時代が可能にした仕組みでもある。教育と労働市場がうまく連携していた時代に、企業に入ることはすなわち大人になり、若い時代の夢をあきらめることだった。
しかし、今僕たちが生きるのは後期近代。誰もが終わりなき自分探しをしなくてはならない時代である。だから、この時代に夢を追いかけてしまうのは不思議なことじゃない。むしろ「自分にはもっと何かがあるんじゃないのか」と考えてしまうのは後期近代人の宿命のようなものだ。しかし、キャリアラダーも十分にない社会で夢を追うことにはあまりにもリスクがありすぎる。



感想
日経BPnetの「ゆとり世代、業界の大先輩に教えを請う」っていうネット連載に、著者が出てきて対談をしていた。その若者論が面白そうだったので著書を読んでみた。「絶望の国の幸福な若者たち」のほうは予約者数が多すぎたので、まずは今回の本を。

期待通り、かなり興味深く、面白い本だった。まあ、著者の一事例でもって若者の全てを語れるわけではないだろうが、その指摘に同意できる部分も多かった。僕の周りにも、こういう人たちっているからな。

それと、ピースボートについてのレポも面白かった。これのチラシ、確かによく見るもんな。世界一周にも興味あったし、どんな感じなのかが分かってよかった。結論として、僕がこれに乗ることはないだろうなあ、と思ったけど。


繋がりが少なくなってきた現代では、多くの人が居場所、共同体を求めている。そしてそれを、「歴史」や「日本」に求めている人がいるとの指摘。少なからず、僕にも当てはまるんだろうな。自分を言い当てられるのは気持ちのいいものではないけど。まあ、「自分は違う」とか言って自分を特別視する必要もない。それが悪いわけではないし。それは自尊心や安心・安定に繋がる。自分を構成する要素は多い方がいい。それのみに依存するようだと危ないけどね。


旅の目的について。せっかく外に出るのに、関心が内ばかりに向かうのはもったいないよな。もちろん、それも醍醐味の一つではあるんだけどさ。普段とは違う環境に身を置くことで、普段考えないようなことを考えられるし。入力を変えないと、出力は変わらない。とはいえ、異文化や異世界に親しむことにしたって、結局はそれによって自分の糧とすることが目的なんだから、同じことだと思うけどね。理解が深いか浅いかの違いはあるにしても。変化が得られるのならば、どちらでも。
それよりも、内田さんが「呪いの時代」で指摘していたことのほうが当たっているような。

彼らが「自分探し」というときに探しているのは実は「自分」ではない。彼らが探しているのは、彼らの欠如感、不充足感を充たしてくれるような他者です。「自分」を探しているのではなくて、「自分」を支えてくれる土台、壁、屋根を探している。

自分を変えず、自分に合う周りを求める。そこに、変化・成長はない。もしもこれが若者の現状なのだとしたら、危ういよなあ。


この本の中でも、同じ傾向を持つ若者について述べられている。「異質なもの」を受け入れられない人たち。違いを想定できず、摺り合わせも出来ないのであれば、今は繋がっていても、近い将来にすれ違っていくだろう。それとも、そういうその場限りのコミュニティをどんどん食い繋いでいくのか?
今後どうなるかなんて分からないし、絶対に無理とは言わないけれど、やっぱり脆いよなあ。こういう人たちを生み出せたってことは、それだけ快適な世の中を構築できたってことなんだろう。素晴らしいことなのかもしれないけれど、長く続けられることでもない。親に寄生するニートと同じ。そのうち、現実に直面するんだろうな。現代に適応しすぎた若者たち。今後の劇変に、淘汰されないといいけど。

「自分の想いによって世界が変わる」。「ザ・シークレット」は僕も読んだし、この言葉は真実だとも思う。ただ、これは自分の内面世界について当てはまるもの。自分が願うことで、自分の行動が変わり、それによって自分の世界が変わる。決して、自分の望みによって周りの世界、他者の世界が変わるわけではない。そんな当たり前のこと、言わせるなよな。


若者論ってのもなかなか面白いな。彼らと比較することで、自分を振り返る機会にもなる。著者の本はもうちょっと追ってみよう。あと、社会学って分野も楽しそう。