時間と自由
- 作者: アンリベルクソン,平井啓之
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2009/01/10
- メディア: 単行本
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われわれの日々の行動は、限りなく動く感情自体よりも、それらの感情が結びつく不変の像によってはるかに影響される。日常の大部分の行動がこのように行なわれる。また、記憶の中に、ある種の感覚、感情、観念が固定化するおかげで、外部印象が、意識的で知的でさえありながら、多くの点で反射行為に似ている運動を引き起こす。
解説
ベルクソンは、ここで「時間」について論じているというよりは「時間」と呼ばれることですぐに変質してしまうもの、だから「時間」と呼ぶわけにいかないものについて語っているので、『時間と自由』という題は、この「時間」というコトバに対する違和感を感じさせない点、哲学苦手の人間に、何か「取りつく島」がないという感じを与えるのである。
感想
「座右の古典」で紹介されていた本。いやあ、これは骨太な本だったなあ。言葉が意識の表面を滑ってしまい、本当の意味で理解できているのかよく分からなくなってしまったよ。こういうのをきちんと把握し理解できる人ってのは凄いよなあ。だとしても、自分なりの理解においてもそれなりに得るものがあり、収穫はあったと思う。それぞれのレベルに応じて読書は楽しめるってことかな。
という前置き(言い訳)をしつつ。この本では、時間とは何か、自由とは何か、について考える。「自由」と言っても、人は本当の意味で自由を享受しているのか?出来るのか?実際には、制約の中でしか自由を感じることが出来ないのではないか。
人は、自分の意思でもって物事を選択する機会はそれほど多くない。ほとんどの場面において、気付かぬまま自動的に行動している。行動させられている。意識・判断した行動ですら、それは本当に自由な選択だったのか?何の前提もなかったか?
人は芸術(絵画、音楽、詩など)に心を動かす。でもそれも、規則性というベースのもと、そこからの揺らぎの範囲内でしか美を感じることが出来ない。本当のランダム、自然には、美を感ずることが出来ない。
人は、意識下での複雑雑多な諸感情を意識出来ない。それを表出する際には、その周りに付随していたはずの感情をばっさりカットしてしまっている。名前を与えられている、固定的な言語しか表に表すことが出来ない。そこには制限・制約がある。
そもそも、「自由」というふうに言葉にしてしまった時点で、本当の「自由」が包含していたはずの意味を削ぎ落としてしまっている。
まあ、言われてみればその通りかもなあ。面白いなあ。だからと言って、自由の価値が減じるわけでもないけれど。別に、本物じゃないから、完全じゃないからって、これまで得てきた自由の効能が変わるわけではない。今まで通り、それを追い求めていきたい。
でも、こうして一つの物事にこだわる姿勢ってのはいいものだね。当たり前のように享受してきたものにも、違った見方・感じ方が存在している。厚みが一段増した感じ。そういうのを模索するのも面白そうだし、自分の意見に囚われず、色々な立ち位置を認め、尊重していきたい。