40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

これがニーチェだ

これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

感想
ニーチェについての本、六冊目。もうそろそろいいかな、という気もするんだけど、まだ予約した本が残っているので続行。著者は世の中に出回っているニーチェ本に不満があると言う。それらの本はニーチェの思想を世の中に役立たせようとしている、答えを提出している、と。著者によれば、ニーチェってのはそんなもんじゃないらしい。そのくせ、「本書がニーチェ解釈として正しいかどうかには、さしたる関心がない」とか言うし。結局は著者の解釈を示しただけなんだよな。ならば他人がどう解釈しようがどうでもいいじゃないか、って思うけどね。まあいいや。


なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」―これがほんとうの答えである。

なるほどねえ。人を殺してはいけない理由として提出される「道徳」「律法」を、ニーチェは批判したわけだもんな。でも、覚悟がない人間が安易にその道を選ばないよう保護するためにも、偽善だったとしてもそういう防護壁は必要なんだろうな。


そもそも力への意志とは、力の現象、力の現れ、力の働きなのであろうか?満ち足りた者、自分の内部に欠如を感じない者、自分の外部に自分を否定する敵の存在を感じない者は、強い力をもっていてもそれを強く発揮する必要がなく、それゆえ自分の持つ力を意識しない。力を意識する者、力を発揮せざるをえない者は、力の弱い者である。力への意志は、多くの場合、解釈への意志となって現れる。解釈とは、この場合、本質的におのれ自身の不満と願望の、つまり自分の「憧れ」の、世界への投影なのである。

ニーチェが到達した真理「力への意志」への反論。なるほどなあ。確かに、強者は力を意志する必要はないよな。足りないから、求めているからこそ意志するわけで。不足・不満があるってことは、つまりは弱者ってこと。もちろん、この考えに対する反論もあるんだろうけど。色々と議論を深められそうで面白いなあ。


今日、なぜニーチェ思想やそれに類するものに救いを求めるニーチェ的弱者が生まれつつあるのかという問いの答えはもう出ている。すなわち、力への意志に基づく世界解釈が僧侶(畜群を圧倒し、その心を奪う牧人)の力をモデルにした本質的にニヒリスティッシュな世界解釈だからなのである。

「自分は強者・超人だ」って悦に入る実質弱者ってのは結構多そうだな。「真理なんてない」って思想は、結局は自分に都合のいい真理・解釈を持つことに繫がり、そうすることで、世間一般で弱者とされる立場から脱出することが出来る。少なくとも自分の中では。でも、僕はそれでいいと思う。なんでわざわざ客観的な評価を下して落ち込まなくちゃいけないんだか。幸せになるための、実に合理的な手段じゃないか。批判されるようなものじゃない。他人に迷惑をかけないならば。
僕自身は、真実を追求していきたいと思っている性質なんで、自分だけの理解に閉じこもることなく、常に開けた存在でありたいと思う。


「超人」とは、何よりもまず、肯定する人である。永遠回帰を望まざるをえないほどに自己と世界を、その偶然的な現実を肯定している人のことである。超人は本質的に社会的存在ではない。超人はけっして連帯しない。

これは何だか分かるなあ。僕にも若干その傾向があるので。全てを肯定するので、問題を問題と思わない。解決することに無関心。「もっと上へ」と望むのは、現状に満足していないからで、つまりは弱者の立場にいるってことなんだろうな。だったら僕は弱者がいいな。強者の生き方は平穏なのかもしれないけど、つまらなそう。せっかくこうして生を受けたんだし、色々なことを経験し、考え、感じたい。


自分を守る真理に固執する弱者にはなりなくないし、何も求めない停滞した強者にはなりたくない。でも、向上心や欲望を持つ弱者にはなりたいし、世界をありのまま受け入れられる懐の広い強者にはなりたい。どっちでもあり、どっちでもない存在。そんな、いい所取りした存在になりたいな。