- 作者: 梅棹忠夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2002/11/10
- メディア: 新書
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日本なら宗教施設は、苔むすほどふるびたほうが、ありがた味をます。アジアの国ぐにでは、苔むしたらおしまいだ。苔をとりさって、うえに絵の具をぬる。上ぬりはてりはても、底びかりということは、ついにないのである。われわれにとっては、宗教もまた歴史的存在である。だから、寺も、うつろい、くちて、ほろびるものである。しかし、これらの国の人びとにとっては、宗教は超歴史的存在なのだ。だから、寺は、神は、仏は、つねに不滅である。それはくりかえし再生し、つねにあたらしくなければならないのであろう。このようにかんがえれば、かれらにおいてこそ、宗教はほんとうにいきているのである。くずれかけたパゴダ(仏塔)に美をみつけてよろこぶようなわれわれこそ、宗教的感動と美的享楽とを混同する低級な人間であろう。日本の場合についていえば、わたしは、伊勢神宮が20年ごとに、あたらしくたてなおされるという慣行は、このことと関係があるのではないかとかんがえている。伊勢の神はいきているのである。いきている神のすまいは、つねにあたらしくなければいけない。それは、苔むしてはいけないのだ。
日本がごく最近になって発展した国であるというイメージは、もっともひろく流布しているまちがった解釈のうちにかぞえられます。このような見方によれば、日本は明治維新にいたるまで後進国だったのであり、明治維新という歴史的敷居をふみこえてはじめて、西洋の科学技術や文化を模倣し、じょうずに身につけて、産業の近代化を実現したことになります。日本人の大部分でさえ日本の近代化は明治維新とともにはじまったと公言しており、それが全世界にうけいれられている、このあやまった解釈の根づよさを、かえってたすけているのです。しかしながら、よりくわしく日本の歴史を研究しますと、わたしどもの国が原始的な国から近代国家に突然変身したのではないということは、たやすく理解できます。事実は、日本が西洋との緊密な接触をはじめるずっと以前から、独自の近代化へむかって道をきりひらいていたということです。
感想
今年の7/3に著者の梅棹忠夫さんが亡くなった。それをきっかけに、梅棹さんがこの本で提唱している「文明の生態史観」に再び脚光が集まっているようだ。僕がこの本を図書館で予約していたのはそれとは違う流れからだったんで、何かタイミングが良かったな、って感じ。それにしても、50年も前に提唱した考えが今でも有効に通用するってのは凄いよなあ。まあ、そんな人だからこそ新聞やテレビでも大きく扱われていたんだろうけど。
この世界を理解するための切り口は色々あるけれど、梅棹さんの見方もとても興味深かった。細部が全て当てはまるわけでもないのかもしれないけど、効果的・効率的に世界を認識するのに助けになる。世界史や日本史をより深く理解するためにも、こういう土台をもっともっと強固なものにしていきたいなあ。
第一地域・第二地域と異なる過程を辿ってきた国々が、今後どのような発展を遂げていくのか。やはり別の道を辿るのか、それとも同じようになっていくのか。日本も、これまでは無階層社会だったかもしれないけど、最近は格差の固定とか言われているし。この世界がどう変わっていくのか。楽しみだ。その将来を想像するのも面白そう。