- 作者: A.アドラー,高尾利数
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 1984/01
- メディア: 単行本
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個人心理学は、三つの主要問題−仕事、仲間、性−のひとつに属さないようないかなる人生の問題をも知らない。そして、各人は、まさにこれら三つの問題への対応の仕方を通じて、人生の意味に関する自分の内奥の確信をまぎれもなく顕わにするのである。
あらゆる失敗者は、仲間感と社会的関心が欠けているがゆえに失敗者なのである。私的な人生の意味などというものは、実際、そもそも決して意味と呼ぶべきものではないのだ。意味というものは、他者との交わりにおいてのみ可能なものなのだ。
人生の意味というものは人類全体に関心を持つことである。
一個人のもろもろの感情は、その人が人生に与える意味と、自分の努力のために設定した目標の刻印を帯びるのである。これらの感情は、常に主として、彼の目標ならびに彼の一貫した人生のスタイルに依存しているのである。
感想
「座右の古典」で紹介されていた本。著者のアドラーは、フロイト、ユングと並んで「心理学界の三大巨頭」と称されている人らしい。今回初めて知ったわけだけど。
アドラーは、人との結び付き・協同こそが人生の意味だと言う。自分のことしか考えないのは不幸なやり方だと言い、病人や犯罪者と結び付ける。アドラー心理学がこの一冊で分かるわけでもなく、統括して言えるわけではないけれど、やっぱり反発を感じてしまうよね。僕の目指しているものとは違うので。
僕としても、他人を害してまで自分の道を貫き通そうとしているわけではない。Win-Winになるなら、それに越したことはない。ただ、他者の介在が絶対条件だとは思っていない。そして、どっちでもいいのなら、わざわざ負荷を増やす必要も無い、と。他者のために行動しているように見えても、それって結局は自分の益になるから、なんだよな。一緒でないと実現できないことだったり、今後の影響・関係を考えてだったり、そう出来る自分に対する満足だったり。人のためと言っている人は、本当にそこには意識のすり替えや誤魔化しは無いのか?と思ってしまう。
完全なる自己犠牲ってのも確かにあるんだろう。でもそういう、自分よりも他者の益を考える人って、自分の価値を過小評価し、他者の価値を過大評価している面もあるんじゃないかなあ。自分は無理だから、他者の可能性に賭けている。それって、見方を変えれば自分の責任の放棄だろう。責任転嫁。意味の先延ばし。延ばした先にも結局意味は無い。
まあ僕も、不完全な人間だという自覚はあるけれど、だからといって他人の価値を妄信はしない。自分がダメなら他者だってダメ。そこに大した違いはない。ならば自分を生きた方がいい。
それは他者を自分のレベルまで下げる行為、かもしれないけど。でも、自分を他者より低める自虐よりはマシだと思う。
これまでの人類史において、人は他人と協同することでここまで生存し、発展してきた。そういう遺伝子が残ってきたからこそ、協同が普遍的な価値となっている。これに反する考えは異端として排除される。でも、普遍的な価値だからといって、それがそのまま絶対的な価値になるわけではないだろう。
今後も生き残っていくのはそういう人たちで、僕は淘汰側の人間だとは思う。だからといって、生き残るため・次代に繋ぐために考え方を矯正しようとは思わないけど。それが人生の意味だ、とは思っていないので。