- 作者: 勢古浩爾
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/10
- メディア: 新書
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すべては人間がこしらえた物ばかりなのである。そして人間は、それを価値あるものとしたのだ。意味もまた生みだされた。ありとあらゆる無意味に意味をつけたのである。目的も夢も意味とした。そうである以上、わたしたちは生きている間は、意味化された無意味を、そのまま意味として生きればよいのである。そして、それ以外にはないのである。
問題は、どんな無意味を自分の生きる意味とするか、である。どれを選択するかは自分次第である。自分で作り出してもいいが、そこでその「人間」がきまってくる。それが価値観である。
三十代の後半頃だろうか、「幸せ」なんかおれはいらないなあ、と思った。男は、女と子どものために働いて、死んで行けばいいのである。女と子どもがいなければ、ひとのために生きて、死んで行けばいい。もし幸せというものがあるのなら、男の幸せは一番最後だ。これまで幸せになりたいと思ったことは一度もない。
わたしは父親としてはほとんどなにもいわなかった。ほとんどなにもできなかった。しかし、「父」の心としていつも願っている。どうか、雄々しく、やさしく、強く生きていってほしい。惜しみなく働き、惜しみなく愛し、惜しみなく生きていってもらいたい。きみたちは、わたしの「意味」そのものだ。
感想
引き続き、「定年後のリアル」を書いた勢古さんの著作。同じベース・出発点から始まった著者と僕の思想に大きく異なる部分があるのは、著者には妻がいて、子供がいるからではないか。元々違いがあるから結婚に至ったのか、それとも結婚によって変化した部分があったのか。そんなことを思いながら読んだこの本。
著者と子どもについてだけでなく、著者と両親との関係についても語っていく。
いますべてを思い返してみて、もしもこの世に「幸せ」というものがあるのなら、わたしはただ父と母の子として生まれてきたことだけで、これ以上ない「幸せ」だったのだ。僕にとっても、両親がいたからこそ今の僕があるわけで、感謝しているし、尊敬もしている。両親の元に生まれることが出来て、「幸せ」だ。もし僕が結婚し子供を持ったとしても、両親以上のものを提供は出来ないだろう。そこにはやっぱり、越えがたい壁があるなあ。
でも。そんな、子を想う親であっても、絶対の道を示せるわけではないし、援護が出来るわけではない。「絶対」が無いんだから当然ではあるけれど、結局、自分の価値観に基づいて行動することしか出来ない。その価値観が、子のものと対立することも当然あるだろう。自分のことを最も考えてくれるであろう両親であってもそうならば、全くの他人にそれを期待できるはずもない。後から振り返って和解出来る思想もあるけれど。それを望めない、根本的な違いというものもある。そしてそれは、多様な価値観の存在するこの世界においては当然のことだと認識している。
ならばやはり、自分の持っている価値観と適合する行動を取れるのは、自分をおいて他に無い。他人に「与える」ことも、それって本当に当人のためになってるんだろうか、と考えてしまう。もちろん、完全に一致しなければ意味がない、というものではないんだけどさ。こういう点にも効率を求めてしまう自分がいる。
我ながら、極端な思考に走ったものだ。もちろん、部分部分他の人と価値観が一致することはあるだろうし、自分が最も大事にしている所が一緒ならば、共に歩くことも可能なんだろう。ただ、今の僕が目指している最大の目標は、「誰にも依存せず強く立つ」こと、なんだけど。
最適なものではないとしても、人が人を想う気持ちは尊い。著者も子供に対する想いを綴っているけれど、他人のことながら、すごく有難く感じる。僕の両親も、同じように想ってくれているんだろうな。それには出来る限り応えたい。返しきれるものではないけれど。
先月、父が入院した。すぐに退院出来たんだけど、もうそういう年代だよな。祖父母が同じ状況になったときは少し遠いものを感じていたんだけど。それを父に置き換えると、やっぱり来るものがあるね。いつまでも生きていて欲しい、例えどんな状態であっても、って願う人の気持ちがちょっと分かっちゃったよ。我ながら自分勝手だよな。でもまあ、僕にも人の心があったってことかねえ。それがちょっと嬉しかったり。