なにかを「している」人間は傲慢である。傲慢というのがいいすぎなら、どこか自慢気であり、得意気である。なにかをしていることは、なにもしないことより価値がある、というのは笑わせる。
実際、「いい歳のおとな」が「楽しむ」だの「楽しみたい」だのといいすぎる。いまや最高価値みたいである。しかし、これはまだいい。「楽しまなきゃ損だ」ってなにかね?自分でなんの元手も払ってはいないのである。それで「楽しさ」だけはタダ取りしようというのである。
「楽しもう」や「楽しまなければ」は不自由である。「楽しさ」は創るものでも、ひっぱり出すものでもない。生起するものである。
感想
再び勢古さんの本。相変わらずの勢古節で嬉しくなる。2013年に知ってから5年。老後のいいロールモデルになっている。
「人生を楽しむ」「楽しまなきゃ損」について。僕も「楽しく生きる」ことを人生の目的に掲げているからな。よくよく拝聴しないとね。
「楽しまなきゃ」と縛られる、不自由になってしまうのは本末転倒であり、避けなければならない。
ただ、人は自動的に幸せになれる、楽しめるものではない。だからこそ、楽しさを、幸せを求めるべきだと思うけどね。楽しさをタダ取りしているとは思わない。生きるってことは、それだけで苦痛を伴うものだから。コストがかかるものだから。その分の対価は得ないと。そうでないと生きる意味がない。価値がない。僕はそう思うけどね。そんな考えは薄汚いかね。でも、そんなふうに高尚に生きるより、名を取るより、僕は実を取るよ。