40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

死生観を問いなおす

死生観を問いなおす (ちくま新書)

死生観を問いなおす (ちくま新書)

団塊の世代の死生観⇒ 死とは要するに「無」であり、死についてそれ以上あれこれ考えても意味のないことで、ともかく生の充実を図ることこそがすべてなのだ。


創造の瞬間について、当初ホーキングは特異点定理と呼ばれる考えを示して(1970年)、宇宙には「始まり」がある、ということをはっきりと示した。ところがホーキングは研究を続けるうち、やがてそうした自らの説をさらに転換する結論に達する。それが「無境界仮説」(1983年)と呼ばれる考えであり、これに従えば、宇宙は「大きさは有限だがどんな境界も縁ももたず、始まりも終わりもない」ものとして理解される。


仏教における「一切皆苦」という基本認識。そうであるからこそ、そうした「苦」の連続としての輪廻転生からの離脱、ということが究極の価値として目指されるのである。⇒ 回帰する時間や輪廻転生をマイナスのことととらえ、そこからの解放や離脱を強く志向している。

日本人の伝統的な死生観には、死んだ人の魂が何らかのかたちで存在し続けるという、輪廻転生的な発想があり、しかもその場合、輪廻転生それ自体が否定的にとらえられているわけではない。(積極的に肯定している)


感想
本「がんの練習帳」で紹介されていた本。「死」については誰しも考えなくてはならないことだし、現時点での思いを確かめてみようと思って。

僕の死生観は団塊の世代のものと似ている。僕は大体のことにおいて、不可知論の立場を取っている。「世の中に絶対はない」と思っているから、「絶対の事実」もない。死は無かも知れないし、無じゃないかもしれない。それは分からないし、確かめようもない。そこで無駄な努力をするつもりはないし、どっちつかずの状態に留まれることこそが成熟だと思っている。方針としては、どっちだとしてもいいように生きていく。無じゃないとしても今の人生は大切にしていきたいし、無ならばなおのこと大切にしたい。

生の意味、死の意味が分からないってのが現代だそうだ。これも上と同じで、そこに何らかの絶対の回答を求めようとするから、おかしくなるんだよ。生死に意味があろうが無かろうが、どっちでもいい。僕の行動は変わらない。自分が望むとおりに、幸福を追求して生きていく。そういう意味では、人は誰しも自分の望むように生きているんだろうけどね。表面的には望んでいない生き方になっている可能性はあるにしても。


著者は、「宇宙がすべて消滅した後も、時間は流れ続けるか?」と問いかける。僕はYESと思ったけど、正解はNO。時間や空間は、事象を観測する主体(座標系)を特定して初めて意味をもつ相対的なものであり、絶対的なものではない、とのこと。アインシュタイン相対性理論だな。感覚としては、絶対的だろうが相対的だろうが、時間は流れるものだと思うけど。完全な無においては時間はないだろうけど、宇宙の消滅が無を意味するとは限らないからな。まあ、前提条件がはっきりしないなかでは並行論かな。


物理学者のホーキングは、「宇宙に始まりはない」と言っているそうだ。これは初めて知った。ビッグバンにより世界は始まり、今も宇宙は広がり続けていると言われている。ならば宇宙が広がる前、ビッグバンが始まる前はどうだったのか?それは無だったのか?無だとすれば、始まるためには神の存在が必要になってくる。まあそれでも、「ならば神はどうやって始まったんだ」って話になるけど。
ホーキングはそこを解決するために「無境界仮説」ってのを出してきたのかな。彼の著作は読んでいないんで何とも言えないけれど、神の存在を否定するための無理矢理の理論って感じもしなくない。別に神の存在を信じているわけじゃないけどさ。(否定するわけでもないけど。)著者はこの見方が現代の大勢の理解のように書いているけれど、本当?初めて聞いたんだけどな。


自分の死をどう捉えるか。著者は「人間はコミュニティに属しており、その中でこそ生きる意味がある。自分に関わりのある人はいつか死に、コミュニティがずっと存続するわけではないんだから、自分の死も受け入れられる」、と言う。物語の題材にもなりそうなテーマで、色々な見方があると思うけど。僕自身には、これはあまり解決にならないような。また別に新しくコミュニティを作ればいいじゃないか、と。他人との関わりがなければ生きる意味がないってのは分かるけど、その「他人」ってのはいくらでも変えようがある。
「自分自身との別れ」について。いかに記録によって自分の思想を残すとしても、子孫によって自分の遺伝子を残すとしても、死ねば自分自身は消滅してしまう。確かにこれは恐ろしいことだよなあ。こうして考え、成長してきた自分が無くなるなんて。でも、生まれたモノ全てが辿ってきた道だし。自分だけ例外とはいかない。甘んじて受け入れないと。今まで生きて、様々な経験を出来ただけでも幸せだった、と思えるんじゃないかな。まあ、今の僕は死をそれほど身近に感じているわけではないんで、本当の意味で死について理解できてはいない、死について考え尽くせていないのかもしれないけど。


キリスト教やインド仏教が持っている現世への否定観と、ギリシャや日本が持っている現世への肯定観について。なるほどねえ。この対比はなかなか面白い。日本人は豊かな自然のもとに育まれ、世界を肯定的に見てきた。欧米に影響され、わざわざ否定感を煽る必要はないよな。源氏物語で見たように、かつてインド仏教が日本を覆い、世の中を儚む人が増えた。でも、日本人はそこを乗り越え、仏教を自分たち流にアレンジしてきた。ならば、今の欧米流・キリスト教文化による否定感も、いつかは克服できるってことかな。なんかちょっと希望が見えてきた感じだな。


やっぱりテーマが大きすぎて、自分の中でそれほど深く追求できなかったように思う。まあ、ここで簡単に結論が出ていたら誰もそこまで悩んではいないだろうし。これについては今後とも考えていきたい。冒頭で示した僕の考え方が変わるならば、それはそれで楽しみだ。