40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から

ゲームとテクノロジーはいずれも、目下の現実世界では不可能なヒトの願望を、人為的な工夫によって一時的ないし恒常的に実現していこうとする営みだからである。これが資本主義経済下で産業化・商品化されることによって、市場を通じて人々の現実を実際に変えて革命への<理想>を不要化し、ひいては共産主義の人類史的実験に終止符を打たせたのだという言い方さえできるだろう。

 

インターネットの急激な普及。IT革命。この変化によって、遊戯の体験を通じて一般家庭に先端的なテクノロジーの息吹をもたらすという、ファミコン以降のテレビゲーム機が担い続けてきたフラッグシップとしての役割が、完全に終焉を迎えてしまった。コンピュータゲームが<仮想現実>として先行提供してきたテクノロジー体験が、同質の生活現実によって追いつかれてしまった。のみならず、人々の可処分時間や金銭を費やす遊戯性の体験としても直接的に競合し、ゲーム市場縮小の一因となった側面さえ否定できない。
つまりは、宇宙開発の<夢の欠片>として始まり、「ここではないどこか」の体験を創り続けてきたスタンドアローンゲームの体現する<仮想現実の時代>のひとまずの終焉期として、2000年代前半は位置づけられるだろう。

 

伝統的には仏教が担っていた、死と再生の循環性に積極的な意義を見出す<対称性の論理>優勢のマインドセットを、現代の基本的人権に基づく人道主義と整合させながら打ち立てていくこと。
人生の<競技>としての有意義化を図る西洋的な「生と克服のゲーミフィケーション」の追求と協働して、人生そのものが無為なる<遊戯>であっても幸福でありうる、さしずめ仏教的・東洋的な「老病死と祈りのゲーミフィケーション」の旗手たる役割を、日本ゲームの経験者たちは担っていくべきなのではなかろうか。

 

 

感想

去年、自分のこれまでの人生の総括の一環として、残してきた記録類の総点検・まとめを実施した。自分という人間が辿ってきた経路を振り返り、今後の自分を考えていくためにも、とても有意義な時間とすることができた。

 

その中で、大きな存在となっているのがゲーム。子供の頃ファミコンに触れて以来、今に至るまで接し続けている身近な存在。

そんなゲームについても、僕のプレイ歴とは別に、「ゲーム史」として総括してみるのも面白そうだと思って読んでみた本。その勃興期から現代に至るまでの歴史を、主に日米の差異によって露わにしつつ描いてみせた本。

 

最初期のゲームには触れていないけれど、ゲーム史の画期となるゲームの多くに触れてきた自分のゲーム歴。やっぱり僕の人生、ゲームと共に歩んできたんだなあという思いを強くすることができた。
また、時代・歴史に沿ったゲームの歴史。ゲームが戦争技術の余波で生まれたという発生からしてもそうだけど、全ての物事は関連し、影響し合って進展していくんだなあということがダイレクトに感じられた。時代に独立した現象なんて存在しない。全ては時代の産物。僕も「人類」の一員として、存在しているということを、改めて意識させられた。まあ当然のことではあるんだけどね。
今こうして、僕がアリリタして競争社会から背を向けていることも、歴史の流れの一つの帰結。日本人が<競技>ではなく、<遊戯>に親和して成り立ってきたことが結実した、とも言えるかな。

 

あと、日米でのゲーム傾向の違い。そこには、西欧とは異なる日本人の特性が現れている。日本の<遊戯>性が優位だった1980~2000年代を過ぎ、今はFPSオープンワールド等の<競技>性が優位の時代となっている。欧米型の<競技>にいまいち乗ることの出来ない僕は、つくづく日本人なんだなあと思うね。時代によって片方に偏ることはあっても、それが続くことは無い。日本ゲームが衰退することは必然だった。でも、今後復活することもまた、必然なんだろう。その日を楽しみに、今は細々と周縁化されているゲームをプレイしていくとしよう。

 

本書ラストの結論・提言も、最近「禅」に興味を持っている僕と符合し、とても興味深い。これも、全ては関連・影響し合っている事の一つの事例だね。500ページ越えの大書だったけど、とても面白く・興味深く読むことが出来た。本書は2016年までで終わっているけれど、また10年後くらいに、それまでを総まとめしたゲーム史の本を読んでみたいね。