呪いの時代
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/11
- メディア: 単行本
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この「受験生マインド」は政治家のみならず、官僚にもビジネスマンにも、日本人全体に蔓延しています。
大人になるというのは「だんだん人間が複雑になる」ということです。同一人物中にさまざまな人格が踵を接して混在しているというのが「大人」の実状です。他者との共生の基礎となるのは、実は「我がうちなる他者たち」との共生の経験なのだと僕は思います。自分自身の中にあるさまざまな人格特性を許容できる人間は他者を許容できる。僕は自分を許すことのできる人間だけが他人を許せると考えています。
自分の中に現に存在する卑猥さや臆病さや狭量を「こんなのは私ではない」と言って切り捨てたり、抑圧したりする人が、他者の卑猥さや臆病さや狭量に対して寛容でありうるはずがありません。自分の欠点に非寛容な人間が他者の欠点に寛容でありうるはずがありません。でも、「自分らしく生きたい」と言う人はしばしば自分の中にある複数の「私」に対して抑圧的になります。そのような人が他者と共生することはきわめて困難です。
社会改革は属人的な善意によってではなく、徹底的かつ組織的に果されねばならぬ、というのがエンゲルスの批判の骨子でした。
「社会は一気に根源的に改革されねばならない」という主張は、言葉としては美しいし、論理的には整合的です。でも、ラディカルすぎる政治的主張は一回りして現状肯定に行き着いてしまう。それくらいなら、中途半端であっても、微温的であってもいい。とにかくできることから少しずつでもやっていった方がいい。僕はそう思います。
村上春樹「バブルが崩壊したあとは、ネガティブなものが主流をとっていた。今のメディアを見ていると、何か悪口ばかりじゃないですか。でも、そういうものというのは、人びとの心を淋しく虚しくしていくだけだろうという感じがしてならない。」
多くの読者はこの判断に同意すると思う。私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け容れることへ、傷つけることから癒やすことへ、社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトしてゆくべき時期が来たと私は思っている。
感想
久しぶりの内田さんの本。やっぱり内田さんはいいね。最近僕が本で読んだり考えたりしたことと色々被る部分が多く、自分の意見を再確認したり、考えを深堀りさせてもらったりと、かなり入り込んで読むことができた。
大人になることについて。これは分かるなあ。純粋な人間は、人間的に弱い。脆い。他者を許容しないし、そのうち自分自身も許容できなくなって壊れる。他人事ながら、辛い生き方を選択しているなあと同情してしまう。清濁併せ呑む、全ての現象を我がこととして受け容れる、そんな心が広くて寛容な人間になりたいなあ。
エンゲルスの主張に対する内田さんの意見。これも理解できる。クーリエの感想で何度か書いてきたように、僕はエンゲルス側の意見の持ち主ではある。けど、完全解決だなんて無茶な計画を立てようとしていたら、いつまで経っても動き出せない。とはいえ、何も考えずに手当たり次第ってのもどうかなあ。せっかくの善意が無駄になるのはもったいないし、少しでも費用対効果が上がるような取り組みをしたいよな。やることで少しでも残るのならば、やったほうがいい。でも、満足感は、その残った部分でのみ味わうべき。
原発についての意見は、かなり面白かった。「原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する恐怖心をそうやってごまかそうとしたからなのである」とか、「原発を管理運営するためには、原発神社を建てて祀るのがいい」とか。ちょっと突拍子も無い意見のようにも見えるが、物事には色々な面があり、様々な解釈が成り立つわけだからな。これも確かに理由の一つなんだろう。
「利害に関わらない、価値中立的な専門家に管理運営を任せるべき」っていうのもその通り。問題は、そんな人間がいるのかってこと。その人間を育て、雇うお金はどこから出るのか。国が絡むのなら、結局政治に左右されてしまう。うまく設計しないとね。
僕が前に指摘した日本人の国民性っていうのは、内田さんの言う「受験生マインド」ってやつなんだろうな。