40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

生きがいについて

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

「生きがいを求める心」を構成する七つの欲求
1.生存充実感への欲求をみたすもの(自然・芸術等の観照、あそび、スポーツ、趣味的活動、日常のささやかなよろこび)
2.変化と成長への欲求をもたすもの(学問、旅行、登山、冒険、ガーデニング
3.未来性への欲求をみたすもの(目標、夢、野心など)
4.反響への欲求をみたすもの(共感や友情や愛の交流、他人からの尊敬や名誉)
5.自由への欲求をみたすもの
6.自己実現への欲求をみたすもの(才能の発揮、創造のよろこび)
7.意味への欲求をみたすもの(使命、報恩・忠節・孝行、哲学的信念・宗教的信仰)



観照の心には認識の心のように対象にむかって切りこもうとするあらあらしさがなく、征服とか攻撃などの能動的態勢がない。受身の姿勢で、しずかに、そのあるものを味わい、たのしむ。そこにはあきらめに似たゆとりと超脱性がある。
観照の世界に生きるひとは、認識の世界に生きるひと以上に、生を間接的に生きるひとであるといえる。じっと眺めてあじわう観照の眼には、周囲の自然もひとも、すべてつきぬニュアンスのゆたかさをあらわしてくる。色や形の美しさはもちろん、おもしろさ、いじらしさ、かわいらしさ、ユーモア、こっけい、グロテスクなど、人間のあたえられているあらゆる情緒がゆりうごかされる。またこの観照の眼は自分の心さえ風物の一つとして眺めることができるから、自分のなかにあるみにくいもの、どぎついもの、おかしなものさえも遠いところにひきはなし、微苦笑のうちにじっとみつめることを可能ならしめる。


歴史的宗教の遺産は、それが形式化されてひとを縛るときには、人間の内的な生命の発展を阻むが、過去の偉大な宗教者たちの洞察や発見を伝えることによって、個人の貧しい信仰生活を豊かにし、ひろくする作用をもつ。またひとが自分ひとりの主観にあやつられてさまざまの迷路へとさまよい出ることを防ぎ、矯正するという意味を持っているのであろう。


生きがい喪失という状況を通って来たひとには、自己の内外にあるもののなかで、いったい何がたのみとするに足るものであるか、ということについて、以前とはまったくちがった判断をくだすようになっているであろう。もはや他人の評価や自己の所有するものに重きを置かなくなるであろう。愛の対象ですら自分のものと考える執着は、もう二度と持つまいと思うであろう。また自分の心に何ほどかの知識や徳や見識がたくわえられていたようにみえていたにしても、いざというときにはすべて崩れ去ることを経験したから、もはやそういうものによりかかることもしなくなるであろう。どんな状態に陥っても、どんなところにあっても、人間がふたたびみいだしうるよろこび、それは何であったか。それは人間の内なるものだけではなかったか。



感想
座右の古典」で紹介されていた本。「生きがい」について体系的に扱った名著、とのこと。1966年発売なんで、古典ってほど歴史を積み重ねているわけでもないんだけど、そう言うにふさわしい重みを持った本なんだろう。僕も人生の目的とか、幸福の追求なんかについて考えるのは好きなんで、じっくり楽しみながら読んだ。
名著と言われるだけあって内容が深くて多岐にわたり、自分の中で消化しきれていない部分も。今回の感想にしても、自分の思いをまとめきれてないんだけど、それでもとりあえず書いてみる。


「生きがいを構成する七つの欲求」について。著者も言うように、ひとつの生きがいにすべてをかけると、バランスをくずし、生活を破壊してしまうおそれが多分にある。欲求の色々な面を満たしたほうが満足度も高そうだし、活動の指標として参考にさせてもらおう。


「生に対してどん欲にできているひとと、つつましやかに、またはのんきにできているひととがある」とのこと。どちらが良い悪いではなく、人間の行動のタイプとして。僕は完全の後者。積極的に世界に働きかけ、多くの人との関わりの中に喜びを見出す人間ではない。それって結局、他者依存なんだと思ってしまう。だから外的世界の充実よりも、内的世界の充実を求める。そんな僕なんで、「観照の心」ってのをこれからもっと磨いていきたいな。


宗教について。「生きがい」について考えるならば、この問題が出てくるのは当然だろう。僕も「宗教的な心」は大切だと思うし、宗教に救いを見出す人がいるのも分かっている。それを否定するつもりはない。ただ、僕がそれに頼らないで生きていける人間であり、そのほうがより楽しそうだ、って思っただけの話。


著者が最後に述べる立ち位置。「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。ただ『無償に』存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。」
僕もこれに賛成かな。いや、正反対なのか?僕は人の生に大層な意義があるとは思っていない。その中で何を成し遂げたとしても、そのうち寿命は尽きる。その成果にしても、どれだけの意味があることか。人の寿命、人類の寿命、地球の寿命、宇宙の寿命。永続する意味・価値なんて無い。
といっても、虚無主義に陥っているわけではない。意味は無いかもしれないけど、現にこうして「存在」しているんだから。ならば楽しまなければ損。だからこそ、「幸福の追求」を考える。これを思考停止だとは思わない。それを言うなら、勝手に意味を創出して満足していることだって、思考停止だろう。まあ別に、思考停止が当人の幸福最大化に繋がるのならば、それを否定するつもりはないんだけどさ。こんなこと言うのは、僕も生きがい喪失を経てきた人間だからなんだろうな。そこまで大げさなものじゃないけど。


今後とも、より楽しく生きられる生き方を模索していきたい。そしてもちろん、その道中も楽しんでいきたい。