40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

現代日本の批評

現代日本の批評 1975-2001

現代日本の批評 1975-2001

 

東は「僕から宇野常寛にいたるオタク系批評の流れは、いまや潰えてしまった」と詠嘆的に続けているのだが、オタク系の消費者のマジョリティが「批評(的なるもの)」を求めなくなったことは事実だろう。しかし個人の営為としては、今も「オタク系批評」は成立し得るし、どこかでやられてはいる。問題は、それが以前のような影響力を持たないこと、批評対象を愛でる趣味的共同体の内部にも、外部の他者たちにも、訴えかけることが出来ないということなのではないか。いまや承認欲求も陣地拡大も放棄し、皆して嬉々として「現場」に閉じこもっている。

 

本来、オタクとは無限にフィードバックする自己意識=内省のモンスターのような心性を表す言葉だった。だが今やそれは単に熱烈で忠実なファンのことでしかない。そこで求められているのは徹底的な肯定であり、ファンコミュニティの強化と、そのひたすらな確認の作業である。そこには「批評」性は存在していない。むしろ忌み嫌われている。
この意味で、実のところ「ニッポンの文化左翼」もまた、その牧歌的な閉鎖性において「オタク」に似ているのではあるまいか。彼らの言葉は「批評(批判)」ではない。それは結局、内輪の言説/言論にしかなっていないからだ。

 

 

当時(2008年)のぼくは新世代の研究者にまじめに期待していました。しかし問題は、単発でいい本や論文が出ていても、それがまったくシーンを作っていかないことです。まったく線にならない。研究者が、もはや出版のなかで線を作っていくことに関心を持たなくなっていた。
そこで自前で会社を作るしかないと思って、2010年にコンテクチュアズ(のちのゲンロン)という会社を立ち上げた。

 

1970年以降の批評の崩壊というのは、つまりは観客の崩壊の歴史なんですよ。「これが批評だ」というのは観客が決める。観客がいなくなれば批評は終わりなんですよ。売れる売れない以前に、なにが批評なのだか、アイデンティティそのものが失われる。

 

 

感想

日本における批評史を作る試み。東さんを中心にしたグループでの討議のため、反対派の人達からはまた別のまとめがあるんだろうけど、それでも凄い試みだよな。僕には土台が無いため、全然ついて行けなかったよ。特に前半はさっぱり。

後半はところどころ僕も読んだことのある本や著者が出てきたけれど、結局つまみ食いにしかなっておらず、蓄積になってないんだよな。

点ではなく、線で、面で理解していきたいって欲求は持っているけれど。現状、それに全く追いついていない。巻末に重要度別の批評書の年表があったんで、これに従って読んでいってみたい。古いところから始めるべきなんだろうけど、それだと絶対に挫折するだろうから、まずは2000年以降くらいから始めてみようかな。ちょうど批評に親しもうと思っていた矢先だったんで、丁度良かった。手当たり次第に読んでいたら絶対にまた点での読書にしかなっていなかったよ。

 

批評史とは別に、東さんがサブカル批評から離れた理由についても、よく理解できた。肯定しか求めないってのは、オタクに限らず、社会全体の傾向だと思う。分断が加速している。まあ、だからこそ個として生きる道も生まれてくるわけだけど。

ただ、一方に振れれば、その揺り戻しもまた発生する。東さんの観客を作ろうとする、批評を再構築しようとする試みが実を結ぶといいなあ。