40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

なぜ、だれも私を認めないのか

私たちが自分が何者であるかを人に証明し、人から認められようとすることは、それが過剰でも過少でもないかぎり、自分の人生においては生のもっとも根源的な動機となり、その意味で十分プラスになる。だが、認められなくてもいいやと過少になると空虚になり、証明なんかしなくていいやとなると無気力となる。
いや、むしろ承認とか証明にとらわれなくなると、空虚でも無気力でもなく、もっと楽に生きていけるのではないか、と思われるかもしれない。もしそのことが真にできることなら、そのとおりである。だが凡人にとってはできないことなのだ。なぜなら認められたい、証明をしたい、というのはそもそも本能だからである。

 

自己承認ができていると、自他の比較をしても、認めるべきことは認めることができ、嫉妬からでなく余裕をもって判断をすることができるようになる。ただしそのためには「自分様」から離脱することである。それに、自己承認が一定の強度をもつためには、おそらく欲望の縮小(限定)と、人生に対するある種の諦念が必要だと思われる。

 

 

感想

久しぶりに勢古さんの本を読み、勢古節が懐かしく共感も持ったんで、もっと本が無いかと探してみた。そしたら、勢古さんってかなり本を出してるんだな!本書は2002年に刊行された本の文庫本。勢古さんだからってタイトルも気にせず読んでみたんだけど。やっぱり、著者は良くても題材が合わないと自分に合わないんだな、ということを分からされた読書になった。

 

「承認」ねえ。既に僕が求めていないものだからなあ。一切の承認が必要ない、というわけではない。親が最大限の承認をし、育ててくれたおかげで自己を確立できたんだし、それ以降、小学校時代に運動が出来たこと、中学校で勉強が出来たこと、大学・大学院まで行き、一部上場企業に就職できたこと。その他もろもろ、これまでの成功体験と、それによる周りの人たちの称賛や承認があったからこそ、自分を認め、受け入れることが出来た。それが無かったら、今の自分はここにはいない。

 

でも、今後もそれが必要かと問われたら。もう十分と思ったことも、アリリタを選択できた理由の一つだろう。アリリタによって「無職」という最底辺の社会階層に落ち、納税・社会貢献も最低限。田舎に引っ込んで人と接さないから、承認もくそもない。それでも何の問題もないと思えたし、アリリタから約1年を経た今も、そう思い続けていられている。完全に、この本のターゲット層から外れた人間だった。合わないのも当然。

 

今こうして生きていること自体、一瞬の儚いものであり、自分も他人も、世界ですら絶対的な価値のあるものではない。この世界に、絶対的な目的はない。そう悟り、全てを相対化できたことも、承認にそこまで価値を見出さないでいられる理由の一つだろう。そう考えて逆に潰れる人もいるだろうけど、目的や価値が元々ないなら、「自由」に生きられるって思える楽天的な性格だったのも良かったんだろう。

 

勢古さんの定年後の本は、この「承認」について、もっと僕に近い考え方をしていると思ってたんだけどな。この本は定年前に刊行されたものだし、定年によって、また歳を取ることによって、吹っ切れた面もあったのかな。だから昔の本を読んでもそこまで響かないのかも。

自分自身の考えを振り返るいい機会にはなった。