40歳アリリタ(早期退職)達成者のブログ

メインは書評(自分語り)。色々と経験する中で自分の生き方が固まり、2014/11/02の記事を集大成に方針確定。2020年3月末、40歳にてアリリタ達成!

読書について

鑑賞家に二つの誘惑がやって来ます。一つは批評の誘惑です。なまじっか意見がある為に広くものを味わう心が衰弱してしまうのです。意見に準じて全てを観賞しようとして知らず知らずのうちに、自分の意見にあったものしか鑑賞できなくなってくるのです。それは自分の心を貧しくすることです。
第二の誘惑は、悪い意味で芸術愛好家・好事家となる誘惑です。どんなものでも味わうことが出来るということは、自然とものを深く味わわず、表面だけを楽しむという傾向に陥りやすいことは見やすい道理です。ではなぜそういうことになるか。それは鑑賞というものに常に自分の心を賭けることを忘れるからです。そういう覚悟がないと鑑賞の世界が拡がっていくにつれて、鑑賞の純粋さというものが失われていきます。

 

言葉の邪魔の入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かつて見たこともなかったような美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、みなそういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。
そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。諸君は、花の名前が知りたくて見るのです。何の花だったのかと分かれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見ることではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何にもなりません。

 

美しいと思うことは、物の美しい姿を感じることです。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じます。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語っているのです。
人々は、物を感ずる能力のほうを、知らず知らずのうちに、疎かにするようになるのです。物の性質を知ろうとするようになるのです。その道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。

 

感想

著者の小林秀雄、大批評家として名前はよく知っているけれど、一冊も読んだことなかったんだよな。その導入として選んだ本。読書論にはいつでも興味がある。たくさん本を読んでも、そこでの収獲が少なければ勿体ないし、無駄もあるだろうし。定期的に振り返っていきたい題材。

読書論も面白かったけど、美術の鑑賞法も興味深い。趣味の多様化のため、そっち方面にも関心を持っている。知識先行では本当の美を味わうことはできない。小林さんの忠告によく思いを留め、姿そのままを味わえる感受性を養っていきたい。